2013年11月25日月曜日

最近思うこと

 我が家の愛犬ボジョが、11月3日に亡くなりました。とても安らかに。もうすぐ15歳だったので、犬の年齢で言えば、かなりの高齢。多分、「老衰」だったんだと思います。その日の朝は、全くいつもと同じで、朝食も全て食べ、外で遊んで、家の中に入ってきました。その前日は散歩もしたし、前々日は、散歩の最中に走り出したくらいです。その時はとってもびっくりしたのですが、今から思うと、ボジョは自分がもうすぐ死ぬのを知ってたのではないかと思います。最後に、走ってみたかったのではないかと思うのです。そして、11月3日、眠るように亡くなっていました。

 ボジョは私にとって我が子と同じで、ボジョの死によって、子供を失った母親の悲しみを理解できるようになりました。ほんの僅かな期間でしたが、ボジョの母親になれて本当に良かったと思います。

 今でも永遠に泣く事ができるし、それはずっと変わらないと思います。これから何年経っても、ボジョが亡くなったことに変わりはありません。でも、ブログを再開しようと思います。最初はそんなこともできなかったですから、少しは立ち直っているんだと思います。

 そして最近気付いたこと。それは、たとえ私がこうして書くことができなくても、世の中は回っていくものなんだなと思ったのです。このブログを1ヶ月近く更新していなくても、過去に書いた記事は読まれているのです。ふと思い立って、とうの昔に書かなくなってしまった“What a Japanese Wife Said"のクリック数をチェックしてみると、未だにこのブログを読んでいる人がいるのです。人間ってすごいなあと思いました。この地球上に、人間が生きていると思ったのは、変ですかね?「アメリカ人夫の一言」の特徴は、(What a Japanese Wife Saidも同じですが)私の日記であるのと同時に、「辞書」の役割もしていることだと思います。これは私がつくづくやって良かったと思うことです。言語を勉強している人に役に立っているんだと思います。なので更新しなくても、まだ読む人がいるんだという事に気付いたのです。だからもっと頑張らなきゃいけないと思ったのです。自分には自分の使命があるんだと。

 私は日本で生まれ育っているので、もちろん日本語が母国語で、まあ、一生涯、英語が日本語以上になるという事はないと思います。しかし、アメリカの大学を卒業し、アメリカ人の夫と一緒に生活している中で、英語と日本語の差があまりないようになりました。普段の生活で、英語は英語そのままで理解していると言ったら良いというか。例えば、全く同じ工程で作られた飲み物を、二本のボトルに分けて入れて、一本には「Coca Cola」とラベルを張り、もう一方には「コカコーラ」と書かれていても、私は両方とも同じ味として受け入れる、といった感じです。Coca Colaをわざわざ「コカコーラ」と訳さないという事です。同じように、独り言も英語で言ってます。

 たまに日本人のブログで、バイリンガルの子供を見て、「頭の中をどうやって整理するんだろうと思う」と書かれているのを読む機会がありますが、それは私、説明できますね。多分、バイリンガルの子供達は、二ヶ国語が同等に存在しているんだと思います。例えば「Thank you」と「ありがとう」の間に全く差が無く、同じように存在しているってことです。それは、文法上の構造が全く違うとか、そういう事は乗り越えて、例えばボキャブラリーが普通の人の二倍あるって感覚に近いと思います。だから、一々区別しなくても良くて、だから「整理する」必要も無いのです。「理解」すれば、どちらの言語でも構わないのです。
 
 そういう風になったのは、やっぱり夫と一緒に住み始めてからだと思います。で、バイリンガルの自分には、自分なりの使命があると思うのです。例えば「アメリカ人夫の一言」は、自分だから書けると思ったのです。英語だけでも書けないし、日本語だけでも書けない。そして読んでくれる人がいるというのは、とても有り難いこと。自分がどこかで生きていると思えることですかね。そんな感じだと思います。なので、「アメリカ人夫の一言」、再開します。


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